2021/08/09

泡で出てくるタイプの手洗いせっけんの中身がなくなったので買い、補充した。いつもビオレUだったかキレイキレイだったか忘れてしまうし、銘柄がちがったからってなにも不具合はなかろうとキレイキレイを買ったら、というか買ったところにはキレイキレイしかなかった、家にあるボトルはビオレUだった。だからなのか泡の出がわるい。ちょっと銘柄がちがうとそんなことになるんだな、とその日は飲み込んで、翌日なんとなく買ったものを確認したら、そもそも液で出てくるタイプのものを買っていたことがわかり、得心する。

日記として書いているこれは、もちろんきょうのことではない。文章のなかに時間経過があるから当たり前のことだ。数日前のことで、翌日に買ったものを確認したと書いても、それがほんとうに翌日のことだったのかもわからない。書けばそれが日記になり、いつかあとからこの日記を振り返れば、こんな注記さえなければそんな日があったんだと認識する。

そんなことがあったから、帰宅して手にせっけんを出すたびにそのことを思い出すのは、たとえばなにかそばにある本を手にとっても、それを買ったときの記憶や、いちいちの来歴を思い出せないのとは異なっていて、それは生活、というかいまなら生存に密着している事物のほうが生活意識がそっちに引っ張られやすく、本のような生存にはかならずしも必要ではないもの(いや、必要だが)の場合は、意識はその由来をたいして気にせず、とここまで書いてきて、さいきん買った本ならふつうに買ったときのことが思い出せてしまう。生存するうえでの意識と、読書するときの意識のちがい、たとえばある文章を読むときわたしはその文になっていて、文から文へと渡るときの呼吸について、それにつれておおきくなる意識とそれを所有する身体について、考えられそうだったけど、挫かれてしまった。

とても実況的に書いてしまった。日記を書くことは、忘れてもいいことを忘れなくてもいいことに変える。忘れなくてもいいことを半分忘れるために、日記を書く。書いてるうちに整理がつかなくなって、ついに酒を飲みはじめてしまった。またあしたも日記を、書けるようなら書きたい。